2. 思索 と きよめの法則




  (1) 思索の構造:


  「また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカ8:8)

  「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ロマ8:6)

  「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること、そのようなことに心を留めなさい(= 考えなさい)。」(ピリ4:7、8)

  「思い(=思索、考え)の一新によって自分を変えなさい」(ロマ12:2)


  人は、考える動物として造られ、実際、脳における思索をつかさどる分野の割合は大きい。 思索は、1.数量的な思索、2.精神的・霊的思索に大別される。この霊的思索を持っていることが他の動物と違う点である。(* これに、1.、2.を統合した”社会的思索”を付け加えるものがある)
  数量的思索についても、実に、キリストをあかししている。オイラーの公式や不完全性定理は、神の存在三位一体を現している。特に、数学的思索を押し通していくと、なんと、「神は愛」に結実するのである。( → 自然啓示と神4.5.6. ) また、聖書の中にも、日本人の考えと比べはるかに具体的・現実的レベルで、数々の具体的な度量衡、数量的な記述が書かれている。(タラント、ミナ、罪の目盛り、贖い(=買戻し)、「完了した」=”完済した”、スタディオン、7、12、14万4千、・・・・)

  私たちは、最初の「救いの信仰」にあっても、まずよく考えてから信じた。(Tコリ15:2) 
  さらに次の信仰の段階に行くとき、もし私たちの霊が、いのちを愛し、いのちを熱望している者であるならば、思索にあっても神の側に立ち、神を求めるようになる。そうでなければ、(霊は救われているが)依然としてたましいはサタンの支配下にあることになる。ねたみによって聖霊を汚す罪を犯すならば、救いすら失う。
  思索そのものが事を成就するわけではないが、これは、3次元の感覚や環境に先行する 四次元の要素であり、「思索・考え」は、霊の出入り口である。


  事を成し遂げるのは「神のみことば」(イザ55:11)である。これは、神様が今語っておられる言葉や幻やレーマなどである。
  しかし、その「みことばの種」が蒔かれる土壌は良いものでなければならない。 この「良い土壌」とは、積極的、肯定的な考え方のことであり、思考を、神の成功へ方向付けなければならないのである。 もし私たちが、”劣等意識”、”貧困意識”、”病気意識”、”失敗意識”などを持っているならば、神様はご自身のみわざを成し遂げることはできない。
  みことばは真理であるから、私たちは、聖書のみことばの契約に基づいて、「自分の思い(=思索、思考方式)を一新」し、”勝利意識”、”富裕意識”、”実業家意識”、”神に愛されている人”、”賜物の人”、”リバイバリスト”などの肯定的、積極的な意識を浸透させなければならないのである。
  思索・考え方は、健康や寿命にも影響を及ぼす。(「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴17:22))

  神様は、心の土壌が整えられている人をあまねく見渡して探しておられ、神様の計画を実現するために、その人の召しを全うさせるための語りかけを与えようとしていられる。またそのために、すべてのクリスチャンは整えを受けているのである。だから、聖書の読み方に注意。自分も「神の勇士」になったように、自分のこととして読む必要がある。


  注1) 積極思考だけで、神のみことば(=キリスト)を無視するものは、悪霊的な危険なものである。(いわゆる”積極思考”、ユニテリアン(父なる神のみの異端)、ニューエイジ、瞑想・座禅、創価学会など) あくまで、神のみこころを成し遂げるのは、神のことばである。

  注2) ペンテコステ派でしばしば誤解されているみことば: 「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」(箴言29:18)の「幻」とは、人間の好き勝手なビジョンのことではなく、主の教え、導き、助けの意味であり、次の聖句の「律法(=聖書のみことば)」と関連して用いられている。(箴言の前後関係の一貫性に注意) 「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコ4:15)ともある。 結局、主のみこころのみが成就する



  (2) 罪の障壁を除く:


   「たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得(=繁栄し)、また健康であるように。」(Vヨハ:2)

          ・・・・  まず第一に、たましいの分野が主に触れられきよめられると、自動的に環境や身体に対し 奇跡的に作用していくのである。

  ここで、心の罪(とが)を持っていると、内側におられる神様の働きを妨害することになる。(”憎しみ”、”恐れ”、”劣等感”、”罪のとがめ”の4種の悪い状態(by.チョー・ヨンギ師)) たとえば、内側の憎しみの罪によって、内なる聖霊様が流れていかず、癒しを受け取れない。

  創世記のアダムとエバの「原罪」から見ると、恥意識(創3:7)、罪意識(3:8−10)、裁く心、怒り(3:11−13) であり、すべて たましいの内側にあるものである。
    ((参) → 自然啓示と神(7.)、 ・・・ 論理学的に否定的な”自己言及”、”相互言及”が この「原罪」に相当する。)

  これらの罪は、みことばの契約をよく理解し、告白することによって(「語る」ことの力は「思い」よりも強い)変えられていくことができる。 罪が無くなり神様からの良いもので入れ替わると、聖霊様が働き、その人の内側のみならず環境にも変化が起こり、自動的に問題は解決していくのである。 しかし、もし、積極的に愛そうとしないならば(cf.大乗仏教は消極的)、憎しみなどが消えることはなく、問題はそのまま残るのである。


  ・  礼拝後、チョーヨンギ師の牧師室ところに出刃包丁を持った男が入ってきた。彼は、憎しみに満ち、気が立っていたが話を聞くと、気の毒な話だった。彼は、命がけのベトナム戦争での仕事から解放され国(韓国)に帰ると、彼の妻が若い男と駆け落ちし別のところに住んでいた。彼女のところに行き土下座して戻ってくるように頼んだところ鼻先であしらわれた。そして彼女の舅、姑の所に行ったところ、1万円握らせ無理やりたたき出された。 そこで、猛烈な憎しみがわきあがり、その結果、喀血して肺結核にかかってしまった。その日は、友人に勧められ、一度牧師の説教を聞くために来たのであるがメッセージは訛りのために理解できなかった。そして、その後は、彼ら全員を殺しに行くというのである。
  チョーヨンギ師は、”憎しみというものは、憎む相手よりも、憎んでいる本人を滅ぼしてしまう”と語り、イエス様を心に迎えるよう勧め、そして”祈りの山”へ送り出した。 彼はそこで、イエス様を救い主として受け入れたが、依然として憎しみは消えず赦すことができなかった。 もし奥さんを赦さないならば、絶対に癒されないことを告げられ、もがき、歯軋りしたが、ついに、彼はその口の言葉をもって、(初めはやっとのことで)妻を祝福し始めた
  すると、1ヶ月も経たないうちに、彼の肺結核(当時は不治の病とされていた)は完全に癒され、また彼自身の人格も変えられていったのである! 1ヵ月後にチョー師が会ったところ、彼の顔は輝き、ブルドーザーの免許を取り、新しい職を見つけ、そして、これから新しく家を築き、妻が戻ってくることを心待ちにすると言った。

  ・  肥料工場の経営が破綻し、多額の負債を負った男が、うつ状態で気が変になってやって来た。礼拝後、聖霊様の力で精神状態は良くなっていたが、夜も寝られないほど非常に激しい劣等感に悩まされていた。チョーヨンギ師は彼に、劣った人間、だめな人間ではなく、「神の人」になったことを告げ、あらゆる資源が彼の内側におられるイエス様にあることを教えた。
  その後、彼はみことばから示され(「地の塩」)て、食塩の販売事業を始めた。初めは細々としていたが、主は忠実な彼を祝福され、1500万円ほどの食塩を保管するほどになった。 しかしある夏の夜、大暴風が襲い、彼の倉庫が河岸にあったので、保管していた食塩はすべて溶けて流れてしまった。
  チョー師が心配して行ってみると、彼は倉庫の真ん中に座り(気が違ったように見えるほど)大声で神様を賛美し、大声で感謝をささげていた。彼はもはや、劣等感や挫折感に打ちひしがれることなく、不屈の闘争心でさらに食塩の事業を大きくしていった。現在はその事業に加え、時計会社も設立し、超億万長者になっている。彼はチョー師と共に、世界各国へ伝道旅行にも出かけている。


   「あなたの隣人を自分のように(=自分として)愛しなさい」(マタ22:39)

   「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」 (ヘブ10:17)


  犯罪者とは、本質的に、自らの人生に対し”負の判断”を行なう者である。犯罪者の多くは、彼らの本来の能力や可能性よりもはるかに低いレベルで行動し、(たとい高い知性と高潔さを備えていても)”自分を嫌悪”している。 劣等感は非常に破壊的である。
  たとえば、”怒り”とは、多くの場合、自分に対する怒り、自分を赦せないことに起因している。これらの否定的なものが他の人に投射されて、余罪(原罪から派生するさまざまな罪)を犯していくのである。自分を赦すことができないということは、実は、自分が神の立場に立っていることと同じ(= 原罪)であり、高慢である。この高慢こそ、神様によって必ず砕かれなければならないところである。
  また、”自己欺瞞”(=心のブロック機構)により、多くの犯罪者が決して”自分が悪い”とは言わないで、すべての証言を自己正当化する傾向にある。この間違っている心のブロック機構は、「言葉の理解」と深く関係している。

  しかし、みことばは、人間は彼の”自己”をも(積極的に)愛さなければならないことを言っている。(* 大乗仏教のように、”自分にしてほしくないことを他人にもするな”という消極的なレベルでは不足) 罪は十字架によって完全に赦されている。そして、1.神様のみことばをよく理解し、次に、2.神様に愛され、祝福されている、新しい自己イメージ(自画像)がその人に作られなければならないのである。

  ・・・・ 鏡の前で しっかりと自分に対して、”何て私はすばらしい(神様に愛されている、役に立つ・有能な、美しい・素敵な、・・・)んでしょう”、”キリストの十字架によって私は自由にされた(健康である、平安であり上からの喜び楽しみに満たされている、優遇されている、大実業家である・・・”、などと、矯正すべきポイントについて毎日言い続ける。(現実があまりにも異なっている場合は、目をつぶって信仰の目で見て宣言する。) みことばは真理であるから、みことばをよく理解して語っていくうちに、その実質がその人自身と人生・環境に現れてくる。

  また、聖書を読むとき、(単なる歴史資料や文学として読むのではなく、)自分が主人公となって、いかにも 神様に愛されている者、神の勇士、信仰の勇士になったとして読む。「聖書は、神によって霊感された(=油注がれた)書物であり、たましいの矯正に有益」である。


  ・  1950年代 ダン・マクドガルト(福音伝道者、行刑学者、弁護士)は、犯罪に関するキーワードとしてのキリスト教に関連した言葉、 「愛」、「罪」、「隣人」、「罰」、「責任」などについて、反社会的人格の所有者の理解を調べたが、それらの理解は たいてい不完全で自己流に解釈(自己撞着)していた。たとえば”責任”について、アルコール中毒者は他人になすりつける傾向にあるが、この”責任”という 言葉の理解はあいまいで矛盾している。
  そこで彼は、まず犯罪者の知性に訴え、これらの言葉に対する完全な理解を彼らの内部に植え付けることによって、精神の姿勢を変える仕事をした。
  次に、犯罪者の最も大きな問題は、アルコール中毒者と同様に、”自分が無力”と思いこみ、その責めを人生になすりつけることである。犯罪者の多くは、(たとい高い知性と高潔さを備えていても)”自分を嫌悪”している。「あなたの隣人を自分として愛しなさい」の「自分(self)」とは「真の自己(naphsha・アラム語)」を意味し、人間は彼の”自己”をも愛さなければならないことを言っている。そこでマクドガルトは受刑者に、本当の責任は自分の心の中の混乱にあり、その負の姿勢にあることを教えた。
  この”情緒安定教化コース”によって、ジョージア州レイズビル刑務所の受刑者(多くは 反社会的な”強度精神病質者”)の63%がほんの数週間で社会復帰が可能になり、1年半の追跡調査でも逆戻りの兆候は見られなかった。しかも、一人のインストラクターが22人の受刑者を教導し、さらにその受刑者のうちの4人はインストラクターに選ばれた。


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